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武士道精神

仁義礼智忠信孝梯 胆勇

仁 (誰それと隔たりなくいつくしむ心)
義 (義理人情を尽くす心)
礼 (礼儀を重んじ感謝する心)
智 (善悪を見分ける心)
忠 (まごころで仕える心)
信 (信じる心)
孝 (先祖を大切にする心)
梯 (仲良くする心)

胆 (動じない心)
勇 (やり遂げんとする心)

中国の儒教にこんな言葉があります。

人にとって大切なこと、それは【自分という人間を追求する】ことにあり、
いったい自分がどんな人間でどんな生き方をすればいいのかを考えることは、
周りの人達にとっても、環境にとっても良い事です。

ではどういった心の持ち方をすれば「正しい」
となるのでしょうか?

こればかりは異論が飛び交いそうですが、
ここに一つの指針があると思います。

この言葉の中には人に対して持つ心と自分に対して持つ心と
外面内面両方一体になって人の心は完成するということが
書いてあると解釈しています。

私はいったいどれだけ守って生きているんだろう?
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面白い話

(栃木県編)

鹿沼の,農家の店、みのりというところがあって,
駐車場に張り紙があり、サイドブーキーをかけてください、
と書いてあります。一度ぼろぼろになって 新しく書き直しても、
なおサイドブーキーと言い張っています。

壬生のゴミステーションに、もいるゴミ、もいないゴミ
分別表示がなされていました。

↑ほんとかよ・・・。

保母をしてるとき ひらがなを教えるため ことば遊びをしました。
私「だれか、への付くことばしってるひと・・・」
こどもたち「ハイ ハイ ハイ!」
A男「はい!へびろのへ」
私「???」(もちろん せびろのことらしい・・・)

私「し のつくことばしってるひと~」
B男「ハイ ハイ せんせい しってるよ!へびの し 」
私「???」(なるほど、かたちはにてるけどね・・・)
なんか、気持ちはわかるんだけどね・・・ 皆さん 意味わかります?

↑なまってる・・・。

かけ湯

それは那須にきて1年目くらいのある日のことでした。
久しぶりの休みに 家族で 山の上の方にある有名なクアハウスにでも
行って見ようと言うことに なりました。
とても豪華できれいな館内ですが、オフシーズンの夜で人は我が家のほかには 
数えるほどしかいませんでした。
その館内には、温泉のほかに、水着ではいるジャグジーのプールみたいなのが 
いっぱいあります。
わたしが、プールにゆくと もう子供達は 歓声を上げて、
プールにはいっていました。
ふときがつくと、私の左側に ちいさなお風呂みたいなのがありました。
それは本当にちいさくて、人一人がやっと入れるくらいの大きさでした。
それに 形がユニークで、まるで初心者マークみたいに 
家型の浴槽が二つぴったりくっついていました。


「あら かわってる・・・まるで、むかし東京の親戚ではいった"樽風呂”みたい・・・”

私は 独り言をいうと、足を止めました。
そこにはこんなふうな 看板が立っていました。  

" 急に入ると危険ですので、このかけ湯で体を慣らしてからおはいりください。 
左の湯は38度 右は40度です。低いほうのお湯から 10回ずつかけて、お入りください”


「あら おもしろい!やってみよう・・・いっかい・・・にかい・・・」
そして わたしは 書いてあった通り10回ずつかけて はいりました・・・


わ~なんだか、おもしろい。ちちゃくて、ふたつくっついていて、
まるでアベック風呂ってかんじ~~~~~
たまには こんな小さいのもおもしろいものだね・・・同じ方向むいて・・・
となりどうし手をつないではいれそう・・・

と、そこへ 末息子がやってきました。
「お、おかあさん・・・そ、それは、かけ湯って書いてあるじゃない!
はいっちゃいけないんだよー!はずかしー」「あーはずかしい」
「子供として恥ずかしい・・・」

な、なんと私は 勘違いしていたのでした。だって、10回ずつかけてから入るって 
かいてあったんだもの・・・
息子は はずかしいを連発しておりました。


もう5年も前のことなので 白状しちゃいましたが、
クアハウスの方ごめんなさい! 他のお客さんもごめんなさい!

でも、もう一度言わせて・・・"かけてからお入り下さい”って
書いてあったんだから・・・素直な性格だとふつうはいっるでしょ・・・
"これはかけ湯です。かけるだけで、入らないで下さい。”ってかいといてよ・・・                          
以上5年前の赤っ恥でした!

↑もしかして”サンバ○ー那須???




夢とは、99%の失敗に支えられた1%の成功

「とてもまじめでいい子です」
「親のいうことを聞くよい子」
「いつも成績優秀でクラスでは模範となる子」…

「え!まさかあの人が!」という人が犯罪を犯してしまう
社会のメカニズムがあります。世間で言う「良い子」とは、
はきはきしていて、挨拶や礼儀をわきまえていて、
家族や友人を大切にし、誰からも愛されるような子…。

でも、そこに「勉強や運動ができる」「学級委員などの肩書きにこだわる」
「他の生徒の模範にされる」「人の言うことを聞いて期待を裏切らない」…
などが入るととてもややこしくなります。何故なら、“失敗できない”からです。

これはこうあるべき、あれはあああるべき…と
ガチガチに自分という人格を固定化してしまうと、
イレギュラー・バウンドに対応できなくなってしまうのです。

人は誰しも必ず失敗するもの。そして、失敗から何かを学び
今後の自分の人生の智恵とするのですが、
でも「良い子」は、“失敗が許されない”と思いこみ、
失敗したとしても、それを認めないのです。

それ故に、真面目に一生懸命生きているのに、
世の中が間違っていて、自分を苦しめていると考えるのです。

失敗を認めること…それは今までの自分の人格を全て否定
してしまうかのような恐怖があります。
カルト宗教や盲目的な恋などに入れ込んだ人が、
脱けにくい理由がここにあります。

そこで一番大切なことは、失敗しないようにして失敗、
失敗するつもりで失敗するのではなく、まずは成功・失敗にこだわらず
「やってみよう!」と決意すること。

失敗したとしても何か学ぶものがあると
考えれば自然と物事がうまくいくはずです。

それを経験として繰り返していくと、諦めないぞ!
という気持ちがモリモリっと出て、数々の失敗は、
成功を掴むために必要な要素として捉え、恐れなくなるようです。


勝たんとして挑まず、負けじとして挑むべし

阿久津一志出版記念講演会

2月24日木曜日、西那須野商工会二階会議室にて、講演会が現在開かれています。彼は私と同い年で40歳になります。同い年ながら自分の本を出版するなんて凄いですね。後30分しかないんですかぁ?なんて柄でもない事言いながら、汗びっちょりで話しています。その姿は素晴らしいですね。金◯イルに近づくには、まだまだだね(^_^;)でも本当におめでとうございます(^^)

「悩み」は未来へ、「迷い」は過去へ

「四十にして惑わず」
人生半分くらい生きると、“これまでの人生”と“これからの人生”
の折り返し地点で人は迷いやすくなるらしい。

脳は思考によって活性化され知識や想像の“しわ”のようなものが
刻まれていくのだといいます。だから、多いに悩み考えることは、
生きる上で良いことであり、人間として活き活きと生活するための営みとも言えます。

でも、僕達は「解決のための悩み」ではなく、「悩むための悩み」
陥ってしまうときがあります。想像力の暴走なのか社会的な障害なのか、
「~だったらどうしよう」と後ろ向きに思考が飛んで
そこから前に考えることが出来ず、「こんな自分じゃダメだ」と
思い込んでしまう時があります。

未来のことを一所懸命に考えているはずなのに、
心配ばかりが未来に決定されてしまう恐怖。

そんな時は悩んでいるのではなく、“迷って”いるときなのだと思う。
未来は現在の自分がどう生きていくのか?という模索によって
創られていくはずなのに、迷ってしまうときは過去の劣等感によって
未来が語られてしまいます。


自分の生きてきた道、楽しいこともあったけれど、
辛いことや失敗したこと、恥ずかしくて思い出したくないこともいっぱいある。
だからこんな自分が世の中をうまく渡っていけるとは思わない…と
過去を未来にそのまま当てはめてしまう、その時考えるのは全て“過去”になるのです。

「役立たずな自分」「失敗ばかりの自分」「ひどい目に遭った」
「問題から逃げてきた自分」など、「~だから」と自信がないことを
一所懸命に考える。頑張れない自分は世間に申し訳ない、
生きててごめんなさい、こんな自分はいない方がいい・・・と
考えることは、誰もが一度は通る、仕様がないこと。

どうしようもないのなら、考えないよう努力するのではなく、
考えてしまう自分をまるごと受け入れてみようと考える…
「それも自分だ」と認めてしまえば、それ以上考える必要がないから
それが「迷わない」という考え方。


<どうにもならないことなんて どうにでもなっていいこと>
 (ブルーハーツ)

もっと簡単な方法は、迷いを誰かに打明けて、
「大丈夫だよ」と言ってもらうこと。
だって迷っていることは他人にとってみれば仕様がないことで、
またどうでもいいことなのだから、大丈夫だと言ってくれれば
迷う必要がないことがわかる。

世の中にはどうしようもないこともあるし、
考えなくてもいいこともいっぱいある。

「迷わない」考えを持ち意識的に頭に空白を作れば、
本来の“悩み”を考える余裕を持つことができる。
それが「~だから“ダメ”」から「~だから“こそ”」への変革

だからこれからの時代、「健全な悩み」というものが必要に思えます。
「五十にして天命を知る」なんのために生きているのかなんて
生きてみないとわからない。わからないから悩む。

僕達は起こってしまった過去には悩まない、迷う。
迷ってしまうのは、未来が決定されたものだと考えてしまうから。

「この先、何が起こるかわからない」とっても素敵な事実です。
失敗の多い人生だと自分に思えるなら、それをすれば失敗するということを
学んだ人生だということ。
ならば、失敗の数が多いだけ、成功の的ははっきりしてくるのだと思いませんか?

参:「迷わず悩め!」

いつでも自分に【大丈夫!心配ない】と言い聞かせることができる人は
他人にも同じことが言える。

【大丈夫!心配ないよ】
そういえる”男”でいたいですね。

最初の一歩を信じる

<道の全部が見えなくてもいい、まず最初の一歩を進んでほしい>

「希望」は懐中電灯のようなもの。
真っ暗闇に一人怯えて前に進むことができないとき、
一丁の懐中電灯があったらどうだろうか? 

昼間のように自分とそのまわり全体を照らすことは出来ないので、
あっても頼りないと感じるかもしれない。
でも無いよりはまだあった方がマシだと思うはず。

せいぜい5メートル先までしか照らせないので、
足元をよく確認しながらでないと先へ進むことはできません。
でも、それだけの範囲が照らせるのであれば、
どれだけ先が闇であっても前へ進むことは可能なのです。
5メートル進んだ先もその次の5メートル先も、
光はいつもその5メートル先を照らし続ける。

だからもし、希望という懐中電灯が弱く頼りないものであったとしても、
ずっと何かを照らすだけの力さえあれば次々と道は拓かれていくという事実。

それは一重に自分の持つ希望というものを“信じる”ということであり、
そこに安心や勇気というものを託すということによって
電池は切れることなく最後まで照らし続ける。

希望は夜空に光る一つの星のように遠くで微笑んでいるかのようなものにも思えるし、
海の水平線の向こう側で待っているかのような、
どちらにせよ自分の手が届かない存在として考えているのかもしれない。

でも、時には自分の足元だけを照らす希望だってあるのだ。
先の見えない怖さに足がすくんで夢も希望もないと思うとき、
今自分が何を持っているのか、どんな可能性が残っているのか?
という考えまで中々行きつかない。

ただ闇を呪い、自分を包む恐怖に慄き、小さく身を縮めてジッと
それが一夜の悪夢であることを祈って耐えようとする。
それでも一向に朝日が射さない自分に焦りなんて不運なんだと、
嘆くばかりでそこから一歩も前に進むことが出来なくなりやすい。

「こんなはずじゃなかった」「いったい自分は何がしたかったんだろう?」と
思う時にこそ、ほんのささやかかな灯りでいい、
自分の足元だけでも照らす「どうしたい?」という希望を持ってみる。

あれこれ心配して何をやってもダメなとき、
何も考えずただ自分の立ち位置を認めたとしたならば、
千歩先が見えなくてもそこからまず一歩は踏み出せるはず。

焦らなくていい、自分の周りは崖だらけで動けば落ちてしまいそうだ
と思った現実はそこから先へ進んで行くのだと思います。

焦らなくてもいい。

一歩一歩の積み重ねが大切です。


みんな”ジブン“になっていく

自己実現。
単一で均質的で、他との比較を許さない絶対的なものになるということ。
それは“個性化”とも呼ばれ、自分自身になるという意味でもある。

コンプレックスを持っている自分と、それを克服しようとする自分は、
お互いに補い合って統合を図ろうとします。
その統合された状態こそが自己実現だとされています。
イヤな自分というものは、理想の自分とは真逆の対立関係にあるように思えて、
つい都合の悪い自分は切り捨て忘れてしまおうとしてしまうのだけれども、
そもそも理想の自分とはイヤな自分がいなければ存在することは難しい

自己実現を目指すということは「常に問題を自分に抱えそれを克服し続ける」ということを決意するに等しい。だから当然のこと苦しいし生き辛い毎日がやってくる。
できれば避けて通りたいけれど、多分いつかは必ず壁となって自分に立ちはだかってくるのです。

ただ救いとなるものは、「自分とはなにか?」という問いには
必ず答えがやってくるということ。

その時はとても苦しいのだけれども、
長い目で自分の人生を見てみると、何かしら転機となって新しい行動や考えをするようになって
今の自分を成立させる状態が現れる。
少なくとも何者でもない存在から「何かを持っている存在」へとなりうるのです。
それはどもまでも続く終わりなき苦しみではなくて、
見えない心の望んでいることをわかってあげることさえできれば、
苦しみは楽しみにすることができる。

そしてあらゆることを“楽しみ”として毎日を暮らせる状態になったとき、
自分は”ジブン“となる。自分のことが好きで人が好きで、
色々なことが面白くなってくるのは、ジブンの心に素直になっているからだと思う。

もし、胸が苦しくて前に進めないと思っているのならば、
それはジブンが今までとは違う視点・考え・行動を望んでいるということ。

そこで古い価値観を捨て去る覚悟ができれば新しい何かが入ってくる。
人それぞれに苦しさはあるけれど、みんなそうやって“ジブン”
になっていくのだと思いませんか?


参:誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”っていうらしい

「辛」に「一」を足したものが「幸」だ

※自分らしく”素直”に生きた方がいいですよー。



若い時代の失敗は、将来の収穫を約束する種である(BY 本田宗一郎)

人間の体力は、およそ20分の1馬力だそうです。 
ラジコン・カー並みですね。
しかもその馬力は、一定の休養をとり、
一定の娯楽を与えなければ満足に出てきません。
これが機械であったなら、たちまちスクラップになってしまうでしょう。
言われることを言われるままに行うだけならば、
機械の方が人間の何十倍も役立つのです。

人間の労働力の必要性とは、そこに“アイデアが生まれる”ということです。
しかし、人が創意工夫に生きようとすると、
たちまち失敗・挫折の恐怖が頭をよぎることになります。
失敗が恐い…それはごくごく正常な気持ちです。
だから人は臆病なほどよく考え、作戦を練りに練るのです。

それでも、失敗せずうまくいくその可能性は1000分の3です。
何かをやろうとした場合、当然のことながら、失敗の方が多いのです。
コンクリートの上に種を蒔いたり、種を揉んで壊してしまったり、
せっかく苗の状態になっても、
沖縄に青森のりんごの苗木を植えるかのように
見当違いの場合もあるでしょう。

決まったことをただもくもくと機械的にこなすことが安全であり、
労働の美徳であり、もしちょっとでも違うことをしてしまえば、
役立たずとみなされてしまう社会のシステムがあります。
だから、“挑戦”をする意欲、壁を抜けようとする意識がなくなるのも当然です。

しかし、人や時代を見抜く“カン”というものは、
人生を苦しんで渡ってきた人間でないと働かないようなのです。
孤独で、惨めで、自分が情けなくて、夜も眠れず劣等感に包まれ、
夜が明けるのも恐い…。
成功を夢みて、それでも失敗をくり返し、自分の長所や短所がだんだんわかってくると、
自分にないものを人や時代に求めるようになるようです。

そうして初めて、パートナーやアイデアは、自分を補うかのように、
苦しんだ分だけ目の前に現れます。
それが“将来の収穫“として人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか?

戦後のコウモリ傘の需要を見込んで、たくさんの労働力が投入された結果、
供給過剰となり、次々と倒産、リストラが相次ぎました。
その苦境の最中に、ある人のアイデアで、再び需要が再び上がり飛ぶように売れたのです。
そのアイデアとは、“折りたたみ式の傘”でした。
このように、一人から生まれたアイデアが活かされた時、
数千の労働力や数億の投資よりも大きな成果をあげることが実際あるのです。
そして、そのアイデアは、苦境に立たされた状況でなければ、
決して生まれてくるものではなかったでしょう。

これは、機械には決してできない芸当です。 
それが人間であることの価値なのです。
私達は失敗という“種”をしかるべきところに蒔くことで、
将来を収穫することができるようです。

参: 
夢とは、99%の失敗に支えられた1%の成功
発明とは、99%の汗と1%の直感 エジソン
人間は、歩いた分だけ視野が広がる

失敗が出来るのも若いうちがいい。
年を重ねてからでも悪いとは言わないが、
若いうちの方が取り返しがつく。

とにかく、足を運んで自分で実感しよう。
聞いただけではわからない”感じるもの”があるはずです。

その”感じるもの”が一番大切なことです。

イヤなことは、“正しくない”と思いたい

これは人間の性(さが)でしょう。 
どれだけ正しい理論であっても自分に都合が悪かったり、
嫌悪する相手だったりするととにかく反対や批判をしたくなるものです。

もっと他に正しいことはある…とか、そのやり方はきっと失敗する…とか、
理論よりも感情が先に立ってしまって、物事の本質を見ようとしない。
そしてありもしない虚言で相手を攻撃するだけになってしまうのです…
いかにも自分が正しさの象徴であるかのように…。

世の中に起こる大概の争いは、こんなところが理由ではないでしょうか?
世の中には、様々な国家・宗教・人種・文化・歴史…などがあります。
どこが間違いで、どこが正しいのか?

そう、全てが正しく、全てが間違いなのです
お互いに自分の都合によって正しさや間違いの“区別”がつくだけなのです。

ですから、どちらかが一方的に“正しい”ということはないのです。
それは、ちょこっとした痴話喧嘩から戦争まで、なんら変わりません。

“本質”をキチンと分析し、感情まかせにならないで相手を理解するところから
はじめなければならないようです。

参考: 優れた民族は他の民族に対して寛容だ

※まずは、相手を理解することからはじめましょう。
子どもたちの教育も同じ。
子どもたちを理解することから始めましょう。
子どもたちは”素直”ですよ・・・。

大人の背中をみて、いろんな色に染まっていくのです。


“ありがとう”を言う責任はあるが、言ってもらう権利はない

世の中は“ギブ・アンド・テイク”だと思います。
しかし、簡単にそんな関係にはなりにくいのも事実です。

何故なら、人は自分の行った行為に対する“妥当な評価”
を得たいと思うからです。
この“妥当な評価”というものがクセモノで、“妥当”
という尺度は人によって違い、大抵は「たったこれだけ?」
と不満を募らすことがほとんどだと思います。

私は人に“認めてもらいたい”“感謝されたい”
という心を持って行動しています。
それは私の喜びであり、自己の成長に繋がると思うからです。

しかし、当然のことながらそれはエゴでもあります。
自己顕示性による「これだけやってあげたのだから感謝されて当然」
という高慢な部分をどうしても拭い去ることはできません。
それだけに評価が低かったりすると「感謝が足りない」
とひとり腹を立ててつまらない人間に成り下がっていることも事実です。

そんな愚痴をこぼすと、決まって
「それなら最初からやらなければよかったじゃないか」と叱られます。
確かにそうです。しかし、“何もできない奴”と評価されるのも恐かったのです。

もうその時点で動機が不純なのですが、自分の望む評価を与えられる
“権利”を持っていると勘違いしていると間違いなく人間関係を壊します。
また、逆に何かをしてもらった時に感謝や評価をしなくても同じく人間関係を壊します。

ではどうすればいいのか?

何かを誰かにしてあげれた自分を自分で評価してあげればいいのです。
何かを誰かにしてもらったことを評価することを忘れなければいいのです。


宗教に入ってさとりを啓くわけでもなければ、自己満足で十分です。
自分が役にたったことを誇りに思い行動できれば、感謝されないはずがないのですから…。



※今大切なのは”ギブアンドギブ”の精神

でも私たち経営者は”ギブアンドギブ”与えて!与えて!与える・・・・・。

前にも書きましたが”損得経営”をやっていては駄目です。
”善悪経営”を心掛けましょう。

周りがよくなれば必ず自分に跳ね返ってきます。
例え時間がかかったとしても。

私たち”大人”は、次の世代に何を残すか残せるか。
そして地域の為に何ができるか・・・を考えなくては・・・。

福沢諭吉は【国を支えて国に頼らず】と言ってます。


↓以下、以前にも書かせていただきました・・・。


国民は自分の勉強不足は棚に上げ、政府に対する不満ばかりを口にしていると批判し、

「この程度の国民だから国家もこの程度なのだ。」

国を支えていくのは、志をもった国民一人ひとりである。
「この人民ありて、この国家あり」
すなわち、人民がこの程度のレベルだから、国もその程度のレベルなのだ。


よりよい社会をつくるためには成功者を妬まずに敬意を示し、
自らもまた努力を重ねることが重要だ、
「嫉妬」は人間の最大の不徳であると警鐘を鳴らしました。


周りのため、人のため、国のためになろうと思った時に、
初めてそこに徳が生まれ、品格が生まれてくるものだ。


諭吉が述べたように「立国は私なり」という
思いを一人ひとりが持って行動すれば、
徳のある人間が生まれ、徳のある国家が形成されていくのだ。

いい会社・いい家庭・いい学校(PTA)を創るなら、

すべて、依存心じゃだめです。

自ら立ち上がることが、大切です。





「自信」とは、自分に出来ないことを知ること

何でも知っていて何でも出来るマルチな人間なんているのだろうか?
あらゆる知識に精通し技術向上に努め、どんな不測の事態に陥ったとしても
最善の対応が瞬時に行えるような人間になれたとしたのならば、
自分の中の自信が満たされ何事にしても勇気を持って生きられるような気がする。
でも、完全無欠な能力を持っていたとしても、
世界一頭が良いエリート集団の組織だったとしても、破綻してしまうのは何故だろう?

その破綻の原因は単純に“不信”という他者とのミスコミュニケーションだったりする。
自分の「自信」として持っていたものが他人の悪意によって侵されたとお互いに牽制し合って、
そいつがいなければ・自分だけでできたのなら…と自分自身に対する尊厳を崩さないために、
他人の失敗にして“不能”であった自分を認めようとしない。
そんなものが“自信”と呼べるのだろうか?

資格を取ったり、専門的な知識を得る努力は、
自分の能力を高めるためにはとても重要だと思う。
でもそれが自分の“自信”として付いてくるかどうかは別。
きっと、知識や技術が“自信”として自分に付くために、
最も大切な学ぶべきことは、
“コミュニケーション能力”なんだと思う。
そしてそれは、「自分に出来ないことをキチンと把握する」
ということでもあります。

何故なら「自分が何者であるのか?自分には何が出来るのか?」
自分に問うことの出来ない人は、他者に対して興味を持つことが出来ないから。
自分に問えないということは自信を持てないということで、他者との接触は恐怖となる。
誰かにすがるということもあるけれど、自分が何かに依存していることを
了解しなければ人に溺れる。

実際には自分が何者で何が出来るかを知っている人なんてほとんどいないと思う。
でも自分ではない者や出来ない事はちょっと自分に向き合えば知ることが出来るはず。
まだ何者にもなっていないのに可能性を潰すようなことはいけないことのように思えるけれど、
何かに秀でた人というのは自分の”身の程“を知った上で
自分の可能性を模索しているように思える。

↓組織の上に立つ人です。

出来る人は自分に出来ないことを知っている人。
だから、自分には出来ないことを簡単にやってしまう人を見つける能力が高くなる。

それはその人を尊敬できるということだから、協力を素直にお願いすることが出来る。
人は誰かに頼りにされるということを幸せの一つとして感じるもので、
“信頼”という名の下に関係は結びついていく。

その信頼関係こそがコミュニケーション能力であって、
お互いに出来ること・出来ないことを補完し合える集団の一員となれたときに
“自信”という安心感に似た勇気を持つことが出来るんじゃないだろうか?

そこに「存在の法則」持ちつ持たれつの関係性を知ることができる。
誰も一人では生きることは出来ない…それを知ってしまえば、
みんなと共に生きる“自信”が付いてくるのだと思いませんか?

社会では、共存共栄ですよ。共に勝つこと。
相手を倒して、生き残っていくのではなく、
お互い切磋琢磨して”向上”させていく事。

”勝つ”という言葉は、自分自身に向けて使いたいものです。

自分に勝つことが”自信”になっていくものです。



ものごとは努力によって解決しない

「ものごとは努力によって解決しない」 
BY クリシュナムルチ

この言葉に対する解釈は、
「努力によって物事が解決するのではなく、
周囲の協力によって物事は解決する。
努力とは、その結果へ至る過程の“楽しみ”である。」というものです。
なぜなら、良い思い出は、結果よりも“過程”にあると思うからです。

問題に立ち向う努力のない結果は満足感もないし、後に続きません。
でも、「頑張れば、必ず物事はうまくいく」と結果を求めすぎると、
思わぬ結果に「頑張っても報われない」と嘆き、自分を責めたり、
周りのせいにしたり、上手くやっている人を妬んだり
してしまいます。

↓ここ大切ですよ!!

ありのままでいいのに、「何の努力もしていない」と
言われないために頑張っているポーズを、
苦労しているという姿勢をまわりに向けてアピールしたり、
問題解決のために頑張っていても、
いつの間にか“頑張っている自分”に酔ってしまい、
報われない自分を「悲劇の英雄」のように
扱ってしまうことも、何かやってないと気が休まらず、
目的のない「努力」の中に逃げ込んで
いる場合もあるのです。


もちろん努力は大切だし、結果を出すことも大事。
それを放棄してしまったら人間の尊厳は
なくなります。 しかし、本当の努力とは、成果を“確信”として
一方的に物事を見ない…どのような自分でも、どのような結果でも
きちんと真正面から“認める”ことではないでしょうか?

「こんなはずじゃなかった」と努力が無駄になってしまったと考えるからこそ、
問題はますます解決しなくなってしまうのです。
決して「努力=解決」とはならないのです。

「これだけ頑張ったんだから」と「取らぬタヌキの皮算用」をしないで
簡単に物事は思うようにならないことを前提に考えれば、
自分を必要以上に卑下することはないと思うのです。
何故なら、物事が解決するときは、自分の努力だけではなく、
その努力を周囲が見て協力してくれたときだからです。 
個人色の強いスポーツにしても、選手ひとりの力だけで優勝することは
できない…だから問題解決はいつでも社会を無視しては、
一人では作ることができないのです。
自分自身の「努力」とは、目標に向かってどれだけのことができたのかという
“楽しみ”のことであって、結果の出ない物事の“言い訳”にしてはいけないようです。

参: 右手の方にやりたいようにやらしてくれた左手の存在は大きい 本田宗一郎


言葉の真の意味を知らずに、自分のやってる行為を
”言葉”に当てはめてしまうと勘違いが生じます。

努力しても、方向違いな努力は結果を生みません。
必ず”地図”で方向を確認し、いろんな人の目で向かう方向を
定めること。

北に向かおうとしているのに、南に進んでいたら
いくら努力しても北にはたどり着けません。

もっと目標から離れていく結果になります。

だから正確な地図を描くために

”地図”=”勉強”
となります。
いつでも方向をしっかりしてそこに向かう努力をする。

そして第3者の意見を必ず取り入れること。

それが出来れば”目標”達成も可能になるでしょう。


幸せの言葉はあるが、幸せに言葉はない

不幸や不遇にはたくさんの理由や言葉が存在する。
でも、幸せにははっきりとした理由も言葉も存在しない。
何故なら、幸せは「在る」ものではなく“感じる”ものだから。
不幸も同じように感じるものなのだけれども、
「~だから」という具体的な物事をくっつけて理論的に
自分から説明付けてしまいやすい。

もしかしたら、「幸せ」というもの自体が存在していないのかもしれない。
「幸」を字解すると、その形象は「手かせ(手錠)」から来ているらしい。
なにかに縛られて身動き出来ない状態が「幸」なのか、
その縛られている状態から開放された時が「幸」なのか、
僕たちはその拘束された状態を抜きにして「幸せ」を語ることは
できないのかもしれない。

簡単に言うと、それは単純に“不幸ではない状態”が“幸せ”となる。
だから、幸せによって誰かと結びついたり思いがけない事に逢うことなんて本当はなくて、
「そこに幸せはない」ということを共有し合うことによって結びつくことになります。

「幸せの力」というものはまるで水の中に空気の入った
ゴムボールを深く沈めてそこでパッと手を放した時の状態のごとく、
水面へ勢いよく浮き上がる様なもの。その瞬間は浮揚する心とともに
幸福感で満たされるが、一旦水面へ浮き上がったらそれ以上の感動はなくなる。
そして人は考える、「どうしたら幸せになれるのだろうか?」と…。

お金やモノで満たしてもそれ以上の浮揚感は一向に出て来ない…
虚しさでいっぱいになる。そこが幸せの絶頂であったとしても。
「何もないこと」が一番の幸せなんだと思う。
でも、高揚感の伴わない幸福に満足するということも
また難しいことなのかもしれない。

向上心や夢、希望などを持った瞬間から人は挫折や苦悩や絶望も
その大きさに比例してやってくる。

その負の状態から浮き出ようとしているときこそが
幸福を感じる瞬間なのだ。だから、負の状態に対して幸福であるとする言葉は
見つけることが出来ないのではないでしょうか?

今自分が「幸せではない」と思っても、その中に幸せを感じることはできるはず。
本当はいつだって幸せは自分の中にしかないのだから。


参考:「追いかけるんじゃない、引き寄せるんだ」

幸せになりたい・・・。
そう思ってる人は沢山いると思う。

しかし
幸せは”なる”ものではなく”感じるもの”。

常に”感謝する”気持ちを持てたならば、
きっとどのような状況であっても、幸せなんだろうと思う。

「正論」と「正義」は違う

命を賭ける決断はいつも悲しみであり、必然性と不可避性はいつも、
「人にわかりやすい正義」に反することになる。 
(BY 三島由紀夫『映画芸術:我慢としがらみ』)

「正論」=「正義」とならないのが世の常です。
「人情」が「正義」を無視または超越するからです。
それを「任侠(にんきょう・おとこだて)」といいます。

純粋に真面目に生きれば生きるほど矛盾錯綜し、
犯罪行為にしか到達しない。
愚かなまでの覚悟は知的に美しい。
これぞまさに「悲劇」です。

一方、学識に豊んだ学者達の「人間性と生命の尊厳」にしか
到達しない思考がそれを「悪」とします。
きれいごとだけの「正論」を振りかざし、机上の空論を正義だとして、
自分はいつでも安全な場所にいる…。
それが「正しいこと」であり、「美しいこと」なんでしょうか?

真の美しさとは、愚鈍なまでの情熱と覚悟からなるもので、
時に正義とは真逆な所に或っても、情念は「知的」な思慮深さに結晶する。
正義を語るには、自分の命を賭ける勇気が必要なのです。

私達に必要な正義とはいったい何なのでしょう。
時に情念やメンツによる決断は正論や命の尊厳よりも重くなるようです。

頭でっかち理論ばかりで、行動を起こさない人は”正義”は分からないと思う。
難しい話になってしまいますが、行動をおこし”経験”することが大切で、
(法に反することはだめですよ)
悲しみ、悔しさを分かってこそ、優しくなれるし正義というものが少しでも
理解できてくるのだと思う。

ちなみにテレビ朝日の金曜日の夜9時からの”悪党”というドラマは
この件について考えさせるドラマだと思います。

自分的には、正義というか”男気”にこだわりたいと思ってます。


陰と陽

善と悪は1枚コインの表と裏のように必ず“対”になって存在しています。
中国の「易」では“陰陽”という言葉になりますが、
つまり昼と夜、男と女、固い柔らかい…と全ての宇宙は相反する
二つのものがバランスをとりあって初めて成立するというのです。

つまり、宇宙の法則上どちらかが絶えどちらかが残るということはないのです。
故にどんな人の心にも“表”と“裏”が…“本音”と“たてまえ”があります。

本音とたてまえを使い分けるなんて・・・と思う人いると思います。
まじめな人ですよね。

しかし現実は・・・
社会に出ると“本音”と“たてまえ”も使えなくてどうする!と感じてしまう。
堂々と“本音”と“たてまえ”を使えば、逆に陰湿なイメージは外れるものです。
(でも、いい意味での使い分けができないとだめですよ)

社会で生きていくためにはウソをつくしかない…と考え
“心の闇”に支配されてしまうと世渡り上手にはなりますが自分はなくなります。

ウソやおべっかは絶対にしない…と考え
“心の光”に傾倒し過ぎても社会では通用せず孤独になっていきます。

大切なことはバランス…仏教だと「中道」と言うそうです。
「楽過ぎず苦しすぎずほどほどに」こそが
宇宙の法則にバランスをもたらし平らなる世界を形成していきます。

難しいと思いますが正論だと思います。

私たちは、哲学という信念を持ち(会社ならば経営理念かな)
そこを拠点に良い、悪いを判断していくという基準をつくっておけば
芯から外れた行動はなくなると思います。

それと大切なことは、自分と違う考えを持った人に出会ったとき
それを受け入れる寛大な心構えが必要です。

秘すれば花なり 秘せずば花なるべからず

秘すれば花なり 秘せずば花なるべからず
(BY 世阿弥「風姿花伝」)

“自分は正直な人間です”と、何も聞いてもいないのに自ら得々と
自分を語る人に、正直な人はいません。本当に正直な人は、
自分の正直さに気付いていないものです。
また正直になりたいと思っている人も、正直でない自分をなんとかしたいと思っているので、
“自分は正直な人間です”とは言わないはずです。

どんなものでも、頑張っていることには何かしら問題があり、
それを克服せんという意識があるため、目標や問題点を言うならともかく、
自ら「十分にやっている」とは言い切れないものです。

逆に、他人の話に聞かれもしないのに、勝手に割り込んで口出しすることもあります。
自分の勝手な価値観や思い込みを他人に押し付け、
それが自分の価値を下げてしまい、ついには孤独になってしまう…。
私も気をつけないといけないと思いながらも、
ついついしてしまい後悔することがあります。

「他人は間違い・自分は正しい」として相手を論破することばかり考えず、
ひとりよがりでない、きちんとした自分なりの哲学をはやく身に付けたいです。

10人十色。
いろんな意見があっていいものです。
生まれ育った環境が違うのですから・・・。

それを理解しようとするところに器の大きさがでてきます。

その国を知るためには言葉を理解しろと聞いたことがあります。
これは深い意味があって、
ただ単に言葉が話せればいいではなく、
その言葉のニュアンスを感じ取るというところではないでしょうか。

意見がぶつかるのは悪いことではありません。
ベクトルが同じ方向に向いているのなら。

ただそこに、相手が何を望んでそれを言っているのか
理解することが大切ではないでしょうか。



“自信”とは等身大の自分を認めることだ

“自信を持て!”、“頑張ればできる!”、“夢は大きく持て!”…、
言っていることはわかります。
でも、どう目標を持って、どう自信をもてばいいか、
どう頑張ればいいか、それがわからない。
自信…自分を信じる? どうすれば信じたことになるのか? 
それに自分を信じたって何も物事はかわらないじゃないか!…と、
何かが不足しているような、頑張っているはずなのに何も成果が得られないような焦燥感。
現実がうまくいっていなくて夢のことなど考える余裕がないのに、
他人事のように夢を語る人間に無責任さを感じ反発する。

“何かに守られている”という“安心感”があれば、
失敗を恐れず自由にやってみたいことにチャレンジできますが、
大人になると甘えは許されなくなり、当然認められないことの方が多く、
良い点など誰も見てくれないのです。それなのに「自信を持て!」「頑張れ!」
などと言われると、応援ではなく“追い討ち”にすら聞こえるのです。
期待に応えたい、でも出来ないから悩んでいる…
「良い結果を出さねばならない」と条件に縛られ、逆に何もできなくなる。
「自分には決定的に何かが足りていないから、
社会でうまくやっていくことができないんだ」と、何もかも空回りしてまた自信をうしなう…。

そんなとき、どうするか?
確かに、人は向上心や意欲によって成長していると考えられています。
でも、本当はそれだけではありません。
それがこの言葉「焦らず等身大の自分を認めてあげる」ことだと思います。
今自分の持っているもの、出来ている事、
周囲の評価は低くても自分は正しいことをしたんだという
自己評価”をすることも、成長することになるのです。
それは、自信があるから何か行動ができるのではなく、
行動していく過程で“自分自身に自信を与えていくこと”ではないでしょうか?

やりたいことが見つからない…、焦って探さなくとも、
自分に向き合うチャンスだと、何故やりたいことが見つからないと
思っているのか積極的に考えてみる。
何かをして結果として失敗だった…、
でも、挑戦した自分、学んだ自分を認めてあげること。
こんなにも自分は弱くて情けなかったんだ、
意地悪で卑屈で醜い心を持っていたんだ…。
追い込まれて、自信がないときにそれを認めてしまうことは
自分の存在自体を否定してしまいかねないほど恐いことです。
でもそこに、「できないことが当り前、“だからこそ”
自分は挑戦することができる
」と自信が無い自分を受け入れてしまうと、
不思議なほど“自信”がつきます。

コップに半分水が入っていたとして、「まだ半分もある」と思うか、
「もう半分しかない」と思うかは、
“自信”がある・ないのではなく、恐くとも、良い悪い全部ひっくるめて
“自分を知ろう”とするかどうかで決まるようです。

参:
「未熟であることに消極的になってしまったら、未熟である意味がなくなる」
「強さとは、己の弱さを知ること」
「自信があるから行動するのではない、自信を得るために行動するのだ」
「才能なんて関係ない、やりたいからやる。 ただそれだけなんだよ。」

”言葉”は自分を縛り付けてしまうときもあります。
一言で片づけてしまうと、とんでもないことになります。

自信=行動して自分を知る事

と、置き換えてしまった方が当てはまるのかなと思います。

子どもたちにも”がんばれ!!”という前に、”俺が居るからがんばれ!!”
大人もそう、”がんばれ!!”と言わないで、”俺が責任をもつからがんばってみろ!!”

言葉の短縮はある意味”危険”なのかもしれませんね。


孤独とは・・・

ちょっと深いぃ話。
難しいかな・・・。

孤独を真剣に感じたことがある人は
なんとなく理解できるかなと思う。

これから孤独を感じるようになる人(経営者は特に・・・)
参考までに読んでみるとこれからの励みになるかも・・・。



【孤独とは、狭く閉ざされたものではなく、むしろ社会的広がりのある生き方だ

孤独と聞くと、とても暗い部屋の中、
誰からもかかってくる当てのない電話を体操座りでじっと
見据えているような悲壮感があるように思えます。

友達や家族、社会から隔離された場所にいて、やることがなく、
身動きのとれない自分に苛立ちを覚え、それでもどうすることもできずに、
ただ一人泣いている…。
劣等感と無常さに包まれて、自分の存在がなんであるかわからず、
ただふるえている感覚。

でも、この言葉には、それを乗り越える真理があります。
孤独と感じることは、それだけ社会との関係を意識しているということです。
それだけ真剣に、自分の存在を社会にどう活かせばいいか悩んでいるということです。

社会を否定して、自分を否定して、
それでも消すことのできない自己を感じる…それが孤独。
だから、自分の中に孤独を敏感に感じやすい人ほど、
社会との関わりを真剣に考えるのです。

本当に社会から隔離された存在とは、“単独者”です。
社会の影響を受けず、関心も持たず、別の世界に入り込み、
一人でいることを楽しんでいる人。
孤独と感じるからこそ、苦しみや辛さが自分にのし掛かり、
もうこれ以上持ち堪えられそうにないようになりますが、
ある瞬間に“ポン!”と抜ける感覚が起こります。

それまで散々悩まされたものが胃の中に落ちていく(落ち着く)
感覚になると、視界がぱーっと鮮明に広がって、
今まで見えていなかったものが見えてくるはずです。
頭がじーんとしてきて、ふと上を見て、空の青さを改めて知る感覚…
どの人の頭の上にも空が広がっていると思うと、とても安心する…独りじゃないと。

その空の下には戦争や貧困に苦しんでいる人もいると考えると、
このままではいけないと思う。
そして、やっと歩き出せるようになります。
その状態になる条件を後で考えてみると、もういいや…と諦めが最初で、
そのうち、こうなったらとことん孤独になってやる!と覚悟し、
その波に身を任せきった時にだけ起こるような気がします。
必要以上に寂しくなってしまうのは、孤独が悪いのではなく、
孤独である自分を否定してしまうことに原因があるように思えます。

単独者であれば、確かに楽です。社会と自分の関係を考える必要がないのですから。
そのかわり、感情のないうつろな生き物になってしまうでしょう。
人は孤独であるからこそ、他を大切に思い、自分がこの先を切り拓いていくために、
何が必要なのかを真剣に考え、勝ちとることができるのではないでしょうか?
どうしようも無いときは、ただただ自分を信じて恐怖を呑み込んで、
流れに身を任せてみることも必要だと思います。

孤独を感じている以上、必ず社会との大切な繋がりが流れの先にあるはずです。

自分の人生に参戦する

心理学です。
経営者は、いつでも【戦う】覚悟がなければなりません。
ちょっと難しいかもしれませんが・・・。



「不安」とは、実は“そこ”から逃げ出したい自分がいる状態のことを言う。
不安の恐怖は、そこに「どうすべきか?」という提案があっても、行動を鈍らせ、
実行不能な自分のままに陥れることだ。

何故逃げ出したいのか?それは責任を自分で負うことができないと思うから。
だから「不安をなくす」という行為とは、「もう逃げられませんよ、
責任があることですから覚悟してくださいね」
という言葉を真に受け入れることかもしれません。

決して、リラックスして何も心配しなくてもいいという状態ではない。

そう考えると「不安」のままでいるということは、
まだ責任を負わなくてもいい安全な場所にいると言えるのだろう。

でも、残念ながら人は不安のままでいることは出来ない。
だって自分の人生だから。
誰かが自分の人生の責任を負って生きてくれるのならばいいのだけれども、
そんなことは神様でもない限り不可能だし、
自分でやらなければ誰もやってくれないのが現実だ。

そこに出てくるのは「責任」を自分で引き受ける“勇気”というもの。
責任とは、決して人のせいにはしないという覚悟だと思う。

自分の人生に起こる全ての出来事は全部自分の責任だと感じることができるかどうか。
でも自分のせいではない出来事によって被害をこうむったとき、
はたしてそこで「不安をなくす」ことは可能なんだろうか? 
考えるべきこととは、自分か自分じゃないかで責任がある・ないを話し合ってみても、
今起こっている現実には対応ができないということ。

大切なこととは、誰が自分の人生を生きているのか?ということなんだと思う。
「自己責任」という言葉で、何もかも自分が悪いと思いなさいと言っているわけじゃない、
ただ「自己責任」の言葉は常に自分に向けられなければならない言葉であり、
他人に向けられるときは「自業自得」の悪い意味において使われるということ。
逃げられない現実が自分の目の前にあって、できれば逃げ出したいと不安な夜を
毎日過ごしてしまうときは、まだ余裕がある場合なのだ。

本当に逃げられない状態になったとき、誰もが自分の人生を賭けて闘う覚悟を持つのだと思う。
そのとき自分が不安かどうかなんて言葉は無意味になる。
もし、自分に安心したいと思うのならば、自分の人生の責任を負う覚悟をしなければならない。
逃げなければ責任重大だが安心できる、逃げようとすれば不安のまま。
【自分の人生に参戦すること…】
安心したければ自分に闘わなければならないようです。

強く願う

もっと強く願いましょう。
ちょっと願った人と、
より強く願った人では、
「した行動」は同じでも、
「得た成果」には、
大きな差が出るのです。

※自分の運命を動かす言葉より抜粋

強く願えば、自分から動き始め、自分の行動も違ってきて、
その結果、成果も違ってくるのではないでしょうか。

そしてそこに必ず【習慣】が発生します。
【継続は力なり】
それこそが【習慣】です。

しかし、
強く想い習慣化したとしても【結果】と【成果】は違います。

長い目で見たら【成果】に着目したほうがよいのかもしれません。

ボクシングで例えると
世界チャンピオンを目指してる人、日本チャンピオンを目指してる人。
練習方法が異なるわけです。

一生懸命やったからチャンピオンになれるかと言ったら保証はありません。
しかし、長い目で見られるならば、負けたとしても次に生かせる
素材になります。それが【成果】です。

この試合が最後ならば【結果】を目指すしかありません。
でもそれまでの【成果】の積み重ねですよね。

まだ夢の途中。頑張りましょう。

自分のものさし

自分のものさしを持っていますか?

価値観なんて人それぞれである。
お金が欲しい人、休みが欲しい人、
存在価値が欲しい人、みんな「ものさし」が違う。

大切なのは【自分の「ものさし」】
「自分のものさし」を持てば、人に振り回されなくなる。
人は、「自分のものさし」に気がついたときから、
振り回されなくなる。

※あなたを幸せにする魔法の質問より抜粋

自分の背骨(バックボーン)となるものに

気が付くことが大切です。

それは会社でも同じこと。

それがあってこそ【らしさ】がでると思う。

自分らしく生きることが大切ですよね。

腹を空かした貧しい少年の話

腹を空かせた貧しい青年が、橋の上に座ってぼんやりと
漁師たちの仕事を眺めていました。漁師の釣りカゴの中をのぞき、
近くに魚の群れが泳いでいるのを見て、青年は言いました。
「まったく、あれだけの魚が手には入ったら、ぼくだって
 元気になれるのにな、魚を売って、服と食べ物を買えるのに」
すると、漁師のひとりが青年に話しかけました。

「あのぐらいの魚ならくれてやってもいいんだが、
 ちょっと頼みをきいてくれるかな」
「もちろんです」
「しばらく、この釣り糸の番をしていてくれないか、
 町に用事があるんだ」
とその年配の漁師は言いました。

青年は喜んで引き受けました。
そうやって竿の番をしているうちに、魚がどんどん
食いつきはじめ、彼は次から次へと釣り上げていきました。
それがとても楽しくて、青年の顔には笑みがこぼれました。

やがて漁師が戻ってきて、こう言いました。
「約束どおり魚をやろう。さあ、自分で釣った魚を全部、
 持っていくといい。それと、ひとつ忠告もしてやろう。
 今度何か必要になったら、こうなればいいのに、
 などと空想にばかりふけって、時間を無駄にしてはだめだぞ。
 すぐに仕事にとりかかり、自分の手で釣り糸を投げ込んで、
 何かを起こすことだ」


※「魚を与えれば、与えられた人は、一日だけは食いつなぐことができる。
 しかし、
 魚の釣り方を教えれば、教えられた人は、一生食べていけるのだ」

子供たちにはこんなことを伝えなければいけませんね。

子供は親の言うとおりにはしないが、親のするとおりにはする

その通り!!

私は二人の子を持つ父親ですが、本当にそれを実感します。
何かを言い聞かせたとしても「うん」と返事だけはいいのですが、
やっていることは全然違うことだったり、おイタをした時でも
「ごめんなさいは?」と言って謝ったとしてもまったく反省せず、
同じおイタを繰り返す…。 

でも、私のヘンなところだけはちゃんと見ていてマネをするのです。
牛乳を飲んで「プハ~~!」としたり、考え込んで腕を組んでいると、
となりに立って同じポーズをとったり、頬杖をついてぼーっとしていたり…。

子供は言葉よりも目に見えるものや感じることで学ぶことの方が割合が大きい。
だから私はいつも子供の前では規範となるようにしていたいと思うのですが
なかなか…できませんね。

まったく子供にはヘタな姿を見せられません。

子供の嫌なところあるでしょー。
それは、自分のやってることかもしれませんよ・・・。

自分が是と感じ、真実と信じたことこそ・・・

自分が是と感じ、真実と信じたことこそ絶対真理であり、行動によって完結する。 
(BY 王陽明 中国の思想家)

惻隠の情を催せばただちに行動し救済する。
救済が困難であっても実行しなければ思想は完結しない。
最後には身を滅ぼすことに仁と義をなし、己の美のありかとする思想。

その根幹は「知行合一(ちこうごういつ)」であり、
どんなすばらしい思想を持ったとしても行動が伴わない場合、
それは愚の骨頂であると陽明は卑しめています。
また、まわりにとってそれが「悪」だとしても、
自分が「正義」だとするならば身を滅ぼすとしても
行動によってそれを証明しなければならない。

この言葉で勘違いしてはいけないと思うことは、
決して「自分のためなら他を傷つけてもよい」わけではなく、
考えて考えぬいてこれ以外に正しい道はないという確信があって
初めて成立する言葉だと思うのです。
T.S.エリオットの言う「創造力のないうつろな人間たち」は
宗教や学者などの威を借り、自分こそが正義だと他を攻撃する。
戦争はそんなうつろな思想によってもたらされる代表例です。

他を傷つける思想は持ってはいけない.
でも、ときとして、他を傷つずに完結できない思想もあります。
その場合は己の命を賭けた決断と行動によって
責任を果たすべきだということでしょう。

プロフィール

hayato

Author:hayato
那須塩原市で防災・防犯の会社を経営しております。安心・安全・信頼を通して地域のお役に立てる会社にしようと奮闘中です。少しでも皆様のお役に立てる情報が流せたらと考えております。

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