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言葉の重さ

言葉には、重さがあります。
同じ言葉でも、言い方によって、その重さが変わります。
適当に言うと、軽い言葉になります。
思いを込めて言うと、重みのある言葉になります。

ある程度の重みがないと、目の前に相手がいても、
受け止めてもらえません。
話を聞いていて、
「あー、この人、その場しのぎで喋ってるな」とか
「気持ちがまったく入ってないな」なんて感じる人、
いませんか?
もし、あなたがそうなら要注意です。


★この本によると、
ついつい喋り過ぎてしまう人、ひと言多いと言われる人は、
あまり一つひとつの単語や表現を細かく考えず、
思いついた順番に話したり、相手の投げかけにも深く考えず、
ただ反応して答える、ということが多いそうです。
そして、こんなしゃべり方をしていると、真面目に聞いて
くれる人がだんだん少なくなるので注意だそうです。


誰かと話をしていても、偉い方の話を聞いても、
「この人の言葉は軽いなぁ、上っ面だけだなぁ」とか、
「この人は何も考えてないんだろうなぁ、深みがないね」と、
感じられる人がいる。
それは、どうしてそう感じられるのだろうか?

やはりそれは、
日々の行動と言っていることが違っていたり、
自分の話に酔っていて、自慢話が多かったり、
あちこちに話がとんで、まとまりがなかったり、
ただただ一方的で、感情がこもってなかったりして、
それが伝わるのだと思う。

自分が今、何を話しているか、何を話そうとしているか、
どんな言葉を使っているか、その言葉で伝わるか、
自分の話している言葉を今一度振り返り、見直し、
自分の言葉を大切にしていきたい。
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人間万事塞翁が馬

中国のある国境の塞(とりで)に一人の老人が住んでいた。
ある日、飼っていた馬が胡の国の方へ走って行ってしまった。
近所の人たちが、気の毒に思って「災難でしたなぁ」と
同情していた。それに対して老人は、
「いやいや、まだわかりませんぞ。ひょっとすると、
 よいことがあるかもしれませんぞ」と悠然としていた。

やがて数ヶ月過ぎた、ある日、なんと逃げた馬が
胡の国の名馬をつれてきたのである。
近所の人たちは、こんどは、お祝いの言葉をかけた。
それに対して老人は
「いやいや、よいことか、めでたいことかわかりません。
 悪いことにつながるかもしれません」と答えた。
案の定、一人息子が、名馬を気に入って乗り回していたところ、
落馬して大腿骨を折って片足が不自由になってしまったのである。

近所の人たちは、「大変でしたね」と見舞いにやってきた。
ところが、老人は相変わらずのにこやかな顔で、
「いやいや、同情してくださらなくても結構ですぞ。
 これで不幸と決ったわけじゃないですからな」
と言っていた。

それから一年余りが過ぎ、隣国の胡が侵略してきた。
若い男性は兵役にやりだされたが、
一人息子は足が不自由なため、兵役を免れた。
10人のうち9人は戦死してしまったが、
老人と息子は難をまぬがれたのであった。
世の中、何が幸いに結びつくか、それとも不幸に結びつくか、
わからないことを教えてくれている。

★この話は、幸せと不幸は紙一重であること、
何が幸になるか、不幸になるかわからない、
ということを教えてくれています。

誰かの成功や幸せを羨ましいと思っていたら、
ある日突然、倒産して夜逃げしたとか、
家庭が上手くいってないとわかったり、
逆に、例えば、誰かより、自分の方が健康でいいと思っていたら、
誰かは、身体が弱かったので、自分の身体を大切にしていて、
大病にならなかったけれど、自分は健康だと思っていたので、
好きなことをして身体を壊したり、することもあります。

この本では、禍のときは、
これからは、やるべきことをやれば、幸せがやってくる」
と、幸せの種を見つけ、逆に今が幸せならば、
「それにおごることなく、他を見下すことなく、
 感謝の気持ちと常に次の準備を怠らないこと

が大切だと言っています。

東日本大震災
これからの日本がどうなっていくのか。
みんなが一丸となって、励ましあいながら
頑張る時なのかもしれません。

そのままでいいんだ

<そのままでいいんだ。
そのままの姿で、そのままの命が吹き出るとき、それは美しい。
嬉しさも楽しさも怒りも哀しみもすべて美しい。
何も足す事も引く事も必要ない。
内側にあるものが外側に向かって広がっていくとき、
人はそこにほんとうのことを知る。
僕は感じる、未来は今この胸の中にある。>

自己肯定感。心の障碍(しょうがい)のほとんどは、外部からの虐待や、
内部の感受性の強さと自己評価の極端な低さによって起こります。

みんなが当然のように出来ている事が自分だけができていないと思う。
自分が生きる価値や必要性、意味が現実の中にうまく見出せないとき、
自信がある・ないではない、その根本の“ジブン”という存在を大切に思えなくなる。

保護者の“支配”によって自分の判断で物事を考えることができなくなったり、また感受性が
強すぎるために、周囲の評価を気にし過ぎて、「いい子」になろうと“ジブン”以外の何者かに
なろうと努力する。いつかは「いい子」であることに疲れて、いざ“ジブン”を見せようとしても
うまく力が入らず、またダメな部分があるので何もできなくなる。
見せることの出来ない“ジブン”は何の価値も必要性もなく情けない存在だと思い込む…。

嘘で真実が隠されることよりも、真実によって今までの思い出が全部壊されることの方が辛い
から、一生、このまま嘘で固めたジブンで生きてやれと、伏し目がちの毎日を過ごす。
それでもやっぱり“ジブンである理由”が欲しくて、甘え方がわからないまま、誰それ構わず
しがみついては裏切られる…ホントウノジブンハドコニイル?…。


人が何かの問題を起こすとき、ほとんどが「色・欲・金」の三原則で説明がつくといいます。
でも別の大きな問題は「美・純粋・真実」の感覚的・抽象的な憧れが裏切られた時に起こる。
傷だらけの安物レンズ越しにモノを見るように、世の中は歪み全て擦り切れているように映る。
自分を傷つけ存在を抹消しようとしたり、また逆の「ツェねずみ(※)」のように、「自分じゃない、
悪いのは世の中だ!」と自分を肯定できないから、社会を否定・攻撃するしかない。

そうなると鍵を失くした手錠のように、一度はめてしまうともう外せなくなる。
もがけばもがくほどさらにきつく締まってしまうこともある。
誰もそんなジブンを気にすることなく通り過ぎて行く…ガラクタを足で路肩に追いやるように。
ガラクタなジブンを守り続けること…壊れた古時計の“時間”を見るように。

そんな時大切なことは、壊れそうなジブンを捨てるのではなく、
ありのままのジブンを抱えて生きていくこと。 捨てるのはジブン以外のモノだけ。


「それでいいんだよ」とジブンの存在に安心できるからこそ何かを行うことができる。
これは、自分に努力をしないで成長せず、周りに認めてもらおうということではありません。
無理にジブンを褒める必要もないし、無駄にジブンを否定する必要もない。
悩んだり・頑張りたくても頑張れない時こそ、すでに“頑張って成長しているジブン”なのです。

サナギが蝶になるかのように、じっと羽が乾くのを焦らず待つこと…。
だから、誰かの愛にしがみつく前に、まずそんなジブンに安心すること。どれだけエリートで
技術や能力が高くて自信があっても、その安心がなければ必ず崩れてしまうのです。

大好きな人が成功・失敗しても、それで好き・嫌いになるというものではないはずです。
大嫌いなジブンを好きになんかなれないと思うかもしれない。
でも、好きになるのに理由はいらない、ただ、心を通わせたいと願えばいい。
だって、“ジブン”には“自分”しかいないのだから…。

失敗して落ち込んでいたなら、ぎゅっと抱き締めて安心させたい存在…だから、
“愛せるジブン”の行動も同じなのです。

「そのままでいいんだ」
そこから始まることは“ミライ”なのです。


参:誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”というらしい スガシカオ
全身全霊が宇宙に向かってパーっと開いていくこと…芸術(人生)は爆発だ! 岡本太郎
一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり 河合隼雄



※ 「ツェねずみ」 宮沢賢治
弱くて可哀想なねずみがいました。
だから、誰かが助けてくれるのは当然だと感じます。

でも、誰かが親切心で何かをしたとしても、ツェねずみの満足する結果でないと
「お前がいらんことを言わなければ、私は酷い目に遭わなかった。 
償うとくれ、償うとくれ!」と逆恨みします。

そのために友達がいなくなって最後は“ねずみ捕り”だけが友達になり、そして…。

宮沢賢治童話の不思議なところは、あらゆる特権や社会的主勢力が突然、
社会的な“悪”になったり“善”となる様が、オツベルやカイロ団長や
ツェねずみなどに象徴されていることです。

最初から明確な“悪”や“善”があるわけではないので、決めつけて読むことはできない。
あくまでも個人的な価値観と状況の変化を感じて
自分で善悪を判断していかなければならないのです。

狩猟に出かけた自尊心の強い人間が山中にある山猫料理店に入って…
「注文の多い料理店」。 語り手は誰の味方もしていないので
どの立場をとるかによって“悪”や“善”の判断が決まり、
悲劇とも喜劇ともとれ、読み返す度に新しい発見があります。

“記号的”な人生を“象徴的”にぶち壊す

“記号的”な人生を“象徴的”にぶち壊すんだ BY 村上春樹

「記号」と「象徴」を簡単に説明すると、記号はA=Bは、
B=Aであるというように「=(イコール)」で括れますが、
象徴はAはBを表しているが、BはAではないというように「=」で括れません。

自殺未遂をするくらいに思い悩んで、そこから“抜ける”
ような感覚を体験したとき、「生まれ変わったかのような気持ち」と
言うときがあります。それは「死ぬような状況」をくぐり抜けたからこそ
言える表現です。つまり、生まれ変わるためには、
人は死ななければならないのです。

でも、記号的に本当に死んでしまったら生まれ変わるのか
どうかわからないので、あくまで“象徴的”に死を体験しなければ
ならないのです。それが「自分と正面から向き合う」ことであると僕は考えています。

自分を惨めに思い、他人に迷惑をかけてばかりだから
死んだ方がマシだと死にたがる人は結構多い。
そして、周囲は「頑張れ」「生きることはすばらしい」と
なんとか立ち直らせようと励ましてくれるのですが、そう思いたくても
思えない自分がいるから悩んでいるので、バカにされたかのような、
自分のことをやっぱり理解してくれないとさらにふさぎ込んでしまうのです。

今の自分を良くしたい、変えたいと、今の不満を打ち壊すべく努力し耐えていきます。
でも、自分がいくら頑張っても周囲はそれを認めてはくれない。
相変わらず「頑張れ」と言う…。

生きても地獄、死んでも地獄、どうしようもなく
死を望みながら生きて、「もし~だったら」
「もし~であれば」と仮想世界にしがみつくしかなくなるのです。
だから「どうしようもない=自分」という“記号”を“象徴的な死”
によってぶち壊す必要があるのです。

何があれば、その“記号”を“象徴的”に壊すことができるのか?
それは「こんなはずじゃなかった」の“こんなはず”を
なくしてしまうこと。

人には人生の“節目”というべき、それまでの
“生き方のパターン”を変えなければならない時が
必ずあります。そして、それまで自分を成立させてきた
“それまで”という“記号”がその節にまったく通用しなくなることがあるのです。

だから、そんな自分を“象徴的”に壊してみる。
今まで生きてきた人生観や世界観を改変する
「恐怖」を呑みこむ「勇気」。

何も、自分の正しさを証明する行動だけが勇気ではありません。
ケンカした後に「ありがとう」「ごめんなさい」「すきです」
…何でもないときは言えるのにかしこまる
と言えない…そんな心の構えを取り払うのも「勇気」。
必死になってしがみ付いて、吹き飛ばされないように堪えてきたものから、
パっと手を離してみるのも「勇気」なのです。

そのまま吹き飛ばされたっていい、でもそれは自棄(やけ)に
なっているのではありません、「流れに身をまかせる」ということ。 
そうすることで自分が行くべき“流れ”が見えてくるときがあります。
自分がこだわっているものをもう一度見つめなおし、
はたしてそれが必要であるか考える。

今までの自分を蹴飛ばし殺す…嫌悪している自己から
目を離すのではなく、凝視して叩き壊すこと。ある意味、自己嫌悪による
「肉体的な自殺」よりも苦しい、自己否定による「精神的な自殺」。

自分の中にある“何か”を殺す。 それは“頑固な自分”かもしれませんし、
“真面目な自分”なのかもしれません、もしかしたら自分として生きる上で
“必要不可欠だったもの”かもしれません。
でも、それを取り払った先には、きっとその“記号”を
必要としない自由な実存在が残るはずです。
人が真に活き活きと「生まれ変わった」と思うためには、
象徴的”死”を成就させなければならないようです。

参:道で仏(自分)に逢えば、仏(自分)を殺せ!

奥が深い話しですが、すごく大切なことです。
今の自分を否定しているならば、”何か”を変える必要があります。
今持ってる自分の”プライド”を捨てる事が出来るのならば
何かが見えてくるはずです。

何かを得るためには、何かを捨てなくてはならない。
でも捨てることで何かが見えてきます。


野心のある人の一番の幸福は、いつも忙しいということ。

忙しい人とは、多くの人から必要とされているうえに、
これからやりたいことが、まだまだあるひとだからです。

(中山庸子著『自分の運命を動かす言葉』より)


目の前に山積みになった”やらなくてはいけないこと”の数々。
その量はあまりに膨大で、いったいいつになったらすべてが
きれいに片付くのか検討もつかない。
ようやく少し片付けたと思ったら、終わらせた量よりもっと多い
”やらなくてはいけないこと”が目の前に立ちはだかっている・・・

こんな感情を味わったことがある方も、多いのではないでしょうか。
仕事ももちろんそうですが、例えば専業主婦の方でも、
スーパーに食材を買いに行って、クリーニングを受け取り、
銀行でお金を下ろして、歯医者に予約の電話を入れなくてはいけない
・・・など、事の大小はあれど”やらなくてはいけないこと”が
常にたくさんあって悲鳴を上げたくなることもあるでしょう。

やらなくてはいけないことがたくさんあるのは、
みんながあなたを必要としているからです。
たしかに忙しすぎると愚痴も言いたくなりますし、
弱音を吐きそうになるときもあります。

でも、考えてみてください。
もし、あなたが誰にも必要とされず、仕事も頼まれず、
すべきこともなく時間だけをもてあましている生活を送っている状態を。
非生産的で、”生きている実感”も希薄な日々ではないでしょうか?

忙しいと言うことは幸福なことです。
多くの人に必要とされ、夢中になれるおのを持っている人間は幸せです



こう思った方が利口かな・・・。

とにかく必要とされる人になろう!!

心は自分で育てるもの

もし
飛べないなら、
走りなさい。
走れないなら、
歩きなさい。
歩けないなら、
這っていきなさい。

(マーティン・ルーサー・キング・Jr)

達成したい目標と、嫌々ながら
飛び込んでくる問題(課題)と、
2タイプのものが、目の前にあります。

それらに立ち向かおうとしたときに、

本当に達成したいのか?
本当にそこから逃れたいのか?
の本気度に左右される。

その想いが弱いうちは、
なかなか乗り越えられない。

1つのチャレンジをしてみてダメだったら、
どうしたらいいのか?

よし、今度はこれだ!

これもダメか。それなら、あれでいこう!

また、ダメか。んー、だったら…

と何度でも、立ち向かわなければ、
きっと乗り越えられない。

その気持ちは自然に湧いてくるもんじゃなく、
自分で育てないとなんの力にもつながらないだろう。

ほかの人と同じレベルで出来ないとしても、
やれることをやればいいのだ。
やれるところまで、あきらめず。

一歩一歩地面を踏みしめて”確実に”進んでいこう。
”あきらめない”その心だけでも大きな前進です。

卒業式

今日は息子の通う小学校の卒業式でした。
午前中、規則停電がありどうなるものかと思いましたが
予定より早く電気がきました。

普通何気なく使ってるものもいざとなると無くてはならない
ものなんだなーと実感します。

PTA会長としての役目は果たせましたが、やはり体育館内は
寒かった。

子どもたち大丈夫かなーと心配してましたが、無事終了しました。

4月からは中学生。

ガンバレー卒業生!!

と、言うことで

いつものブログに戻ります。


人は失敗する為ではなく、成功するために生まれる

これは、逆に言えば「失敗を恐れる人は失敗する意志を持っている」となります。
「運命」はその人の人生をつっつきまわします。
しかし人は叡智を持って運命を変えることができます。

例えば天気で「雨が降る」としても、人は「傘をさす」と
いう行為で雨に濡れずに済みます。つまり、その「運命」というものが
たとえ逆境だとしても、それに耐えうるだけの「心」を持つことによって
防ぐことができるのです。

もし、「恐怖」という感情が頭をよぎったらそう考えてみてください。
それでもあなたは雨が降ると言われたら、何もせずズブ濡れになるしかないと思いますか?

奇跡

奇跡というものが
この世にあるのなら、
それをおこせるのは、

ただ神にすがり、
祈る者ではなく、
こういう決断ができる者
ではなかろうか。

※蒼路の旅人より抜粋


奇跡を起こせる人は、新たな行動の決断ができます。

新しい行動を決断できない人には、奇跡は起こせない。

「新しい奇跡」を願ったり、祈ったとしても、

行動が何も変わらなければ、新しいことについて

どれだけ語ったとしても、何も変えることなどできない。

行動するということは、強く想いがあるからこそ。

今日何か新しいことを決心し、今日から始める。

それが奇跡を起こす第一歩になるかもしれません。

でも奇跡は思わぬことが起こる現象であるから

行動して起こることは”必然”なのかもしれませんね。

強く生きて行くために

タゴール「ベンガルの祈り」

危険から私を守ってくださいと  祈るのではありません。
危険の中にあっても  恐れることのないようにと祈るのです。

悲しみや心の痛みの最中にある私を  慰めてくださいとは願っていません。
悲しみから立ち上がる力をくださいと  お願いしているのです。

追いつめられたときにも  崩おれることのないように  
世間的な失敗、挫折を繰り返しても   

それらが取り返しのつかないものだと考えることが無いように
助けてください。

私の重荷を軽くして  楽にしてくださらなくてもいいのです。
重荷を担う強さをお与えください。

この詩は、「喜びに満ちた日々には、私は頭を低く垂れて、
あなたを思い出し、そこに働くあなたの御手に気づくことでしょう。
そして、暗く悲しい夜、挫折に満ちた夜にも、
決してあなたを疑うことがありませんように」
という一節で終っています。  

(カトリック生活1月号 Sr・渡辺和子)

※こんな時だからこそ、人に頼る事を願うより
自分自身の力で這い上がらなければならないと思います。

弱い人間だからこそ”真の強さ”を求めて、
そしてその強さを持って人を助ける。

強さとは、弱い自分に打ち勝つ”精神力”を身に着けること。
日々精進ですね。


未来とは、巨大な“現在の意志”のこと

僕達は未来に期待する。
自分の望む未来を、叶えたい夢を、今よりも豊かで笑顔で溢れる世界を。

でも、いつまでたってもそんな自分になれないのは何故?
それは、未来に期待はしても、今現在に期待できないからだと思う。

未熟で時間が経たなければ成るものもならない焦り、
思うように物事がすすまない苛立ち、どうせだめだろうという諦め、
過去の失敗から立ち直れない後悔…。知らず知らずのうちに幸せを未来に置いて、
今の自分に幸せを置くことを赦していない。

こんな自分じゃないはずだ、もっと大きな幸せがあるはずだと、
そこに向かって努力してもちっとも現実は動いていかない。
そんなとき神様仏様に祈る、「なんとかしてください」と…。

当然のことながら叶えてはくれない、
その人は実際には願いが叶うことを祈っていたのではなく、
失敗したときに運や神様の責任にする「言い訳」が欲しかっただけだから。

要求されるだけされて感謝もお礼もない、あるのは責任だけだなんて、
神様だってたまったもんじゃない。

誰かが自分の未来をなんとかしてくれる、
今はみにくいアヒルの子であってもいつかは白鳥になって大空を羽ばたける…と、
今ある苦労を全部チャラにしてくれる奇蹟の力を待っている。

つい僕は神様やご先祖の意志に導かれ守られると信じ、
自分の能力を挑戦させる“今”をほったらかしにしてしまう。

入信し帰依(きえ)して自分の意志をそこに置いているのなら話は変わるけれど、
僕達は間違いなく自分の“意志”で動いているのであって、
何者かの力で動かされているわけじゃない。

確かに宗教や奇蹟という何者かが僕達を動かしているように思える。
でも、それはたった一人の巨大な“意志”が世の中を動かして奇蹟を
起こしてしまうことの証明にもなります。

そのたった一度の奇蹟は何千年も世の中に影響し続けて僕達を圧倒してしまう事実。 
まさに未来はその“神”によって創られている。

神がかり的なことは非科学的な迷信と思うかもしれない、
でも、歴史にある革命はその“少数の巨大な意志”によって変えられている。

みんながこうなりたい、あれが欲しい、それがしたいと思うことを
少数派がそれをまとめてポンっと一つの形にして見せたとしたら?…
みんながその一つの形を共有したとしたら?…
世界はただ一つの形に真実を見てしまうでしょう。

もしかしたら、今目の前に起こっていることは、
自分がそれを見たから起こったことで、見なかったら起こらなかったことかもしれない。
一冊の本を手にとって読まなければ、その言葉と出逢うことはないように、
何気なく無意識に自分の求めていたものが目の前に飛び込んでくる奇蹟。

自分の意志があって別の意志と共鳴するとき、
僕達は“巨大な意志”の塊になって奇蹟を見ることになる…

それが“神”“仏”と呼ばれる存在として見えるのかもしれない。
ならば、「よし、僕もやろう!私もやろう!」とみんなが共鳴しあう
意志を持ち合ったとしたら、現代の“神仏”を僕達が創りあげることができるはず。

結局のところ、僕達が“神仏”に求めているのは“未来”なのです。
未来は現在が創っているのであって、未来が僕達の今を決めているわけじゃない。

世の中が変化するのは、みんなの意志がおのおのにまとまりなく動いているからだと思う。
だから、ただ一人の未来を計画して実行していたとしても、
変動する世の中では計画自体が自分の行動を縛り、
臨機応変に対応することができなくなる…それが「こんなはずじゃなかった」となります。

未来をあらかじめ決定することは悪いことじゃないけれど、
右肩上がりに成長してそこに到達する計画に期待はしない方がいいと思う。


それよりも、「共鳴させる意志」を現在に持つ事が「未来を創る」ことに繋がります。
世の中に動かされるか・動かすかは、その人の持つ“意志”次第。

極論を言えば、動かされてしまうことも、自分の意志がそうさせている。
誰かを喜ばせ互いに感謝し合える“意志”を持つこと。

もし自分の望む未来の予想図が、誰かの望む未来と同じであったならば
そこに奇蹟は起こり未来が創られていくのだと思いませんか?

参:未来にあるものは今に必ずある

「誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”というらしい」 スガシカオ

「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」 高村光太郎

※今回の巨大地震により”夢や希望”を失った人は沢山いると思う。
本当に絶望的な災害になってしまった。

まだ余震があるし、混乱してる状況ですが、
きっと日本人としての意思が、必ず未来を作り出していくと思う。

今、困ってる誰かの為に自分に出来る何かを見つけてやれることを精一杯
やりましょう。

その行動が共鳴した時に必ず”奇跡”が起こるはずです。


東日本大震災

11日東日本大震災が起きた。
ニュースを見ていると、被災者の方々のコメントを聞いてると
やりきれない思いがあります。

大震災以来、うちの会社も休みなしで対応に追われています。
うちの社員も休みなしで対応してくれています。

お客様が困っていて必要としている時こそ、
一企業としてどう対応できるかが、一番大切だと感じました。

とにかく目の前のことを一つ一つ対応していきましょう。

真実は嘘をつく

人が、本当のことを言おうとしたとき、それをそのままの形で
言ってしまうと逆に真実味を失ってしまうときがあります。
「いわゆる」だとか「一言で」とか真実を単純な形で言えるのならば、
芸術家も小説家も必要がなくなる。
真実を語るとき、人は大きな例え話・・・
虚構を作り上げることによって初めて伝える手段を持つようになります。

直接的に「平和」「博愛」「幸福」・・・
言われれば言われるほどに胡散くさくなってしまう。
できるだけ正直に話そうと思っても、正直に話すということと
それが真実であるということは別問題なのだ。

<それは大きな船の“へさき”に似ている。
最初に正直さが現れ後から真実が現れる。
しかしその真実が大きければ大きいほどに船尾を見る頃には
“へさき”にあったことはもう忘れてしまっている。> 
(村上春樹の小説より)

大きな真実の全体を見渡すことは不可能だし、
もしそれをしたければ真実からは遠い場所に移らなければならない。
その遠い場所というのが“虚構”という場所。
僕達が何かに感動したり、深く自分の心の中に突き刺さってくるものは、
いつでもわかりにくく「なんだこれは?」という一見荒唐無稽なものだったり
無意味で退屈なものだったりします。

<人は退屈でないものにはすぐ飽きてしまうけれど、
飽きないものはいつでも退屈なものなんだ>

スカっとするような単純明快で作為のない答えを求めて、
刺激的でわかりやすい真実を求めて、その時その時の事実を”真実“として
一生分の答えにしてしまいやすい。

でも、本当のことは最後の最後までわからないのです。
だから、僕達は遠回りをしながら、虚構の中を移ろいながら遠くにある
真実を見据えようとしているのではないでしょうか?

そう考えると、真実は嘘の中に存在し、真実の中に入れば
何も見えなくなってしまうものなのかもしれません。
たとえ自分の人生が“虚構”でも、みんな嘘っぱちでインチキだらけの邪悪だと
感じる世の中だからからこそ、
僕達は夢・希望を語る力を持っているのだとは思いませんか?

※理解するのに難しいと思いますが、
真実なんて、わからなくていいこともあります。

夢や希望を持ち、また次々と起こる出来事の中で
それを経験としてとらえて、それを言葉として伝える。

世の中の正しいこと、悪いことは人間が決めたことであり
その真実を知ったからと言って、正しい・悪いを決めることは
出来ないこともあります。

真実は奥深いところにあります。

うーん。むずかしいー。

一度きりの人生が、どんなに幸福か

『人生をやり直せたら。 誰もが一度は考えるだろう。
だが、一度きりの人生が、どんなに幸福かということについてはあまり考えない。』
(BY 恩田陸「ねじの回転」)

何度もやり直せる人生が、果たして幸せだろうか?  
間違いや後悔の度に同じ人生をやり直していたら、
それはもう「人生」とは呼べない。
何故なら、人は間違いや後悔の上に“ジブン”を
成立させていくからです。

だめな自分、弱い自分、未熟な自分…そんな自分がいるからこそ
“ジブン”を築きあげようと必死になってみる…
その姿は大体において“カッコワルイ”で“ブザマ”に見えることの方が
多いでしょう。嘲笑の的になって“陰湿なイジメ”
の対象にされることも、ひどい自己嫌悪や劣等感に悩まされて
自殺を考えることもあるでしょう。

「誰かに相談したい」…、…いったい誰に?
友達? 先生? …ましてや親!?

どんな人に相談したって、誰も自分のことを正面から
受け入れてくれる人などどこにもいない。
友達はバカにする、先生は「そうか、頑張れ!」という、
親は「根性がたらん!俺の若い頃は~」か「教育体制が悪い!
よし、明日学校に乗り込んでやる!」とか言う…。 
大人は自分の都合で生きて事を大きくするだけして、
面倒なことは決して自分の責任にはしないと学ぶ。

モヤモヤとした感情をただ正面から受け止めて欲しいだけなのに、
いかにも「理解ある大人」のフリして「うんうん、わかるなぁその気持ち」
などと言われれば、自分の中に内在する衝動を
ぶつける“壁”がなくなり、気持ちの抑えが効かなくなって
「ヌカに釘」手応えなく暴走してしまう。

「正しく生きなさい」「イジメはいけません」など100%正しい忠告は、
言っている本人が満足しているだけで、実際はそれができないから困っているので、
100%まず役に立たない。

「イジメ」が悪で、イジメられる自分は弱者で…、そうして、
だめな人間として完全にスポイルされた“欠陥品”と
自分自身をみなしてしまう…。

そんな人生を修正することだけに終始してしまったら、
いつかは嫌気がさしてリセットボタンだけでなく、“電源ボタン”
まできりかねない。それどころか、「死んだらキレイな状態に戻って生まれ変わる」と
信じている子供が多い。仏教で言う「輪廻転生」の都合のよいところだけとって、
「因果応報」という部分が欠如しているのです。
「色即是空」や「諸行無常」、全ては無に還るというのでしょうか? 

科学だと水が氷や気体になるように「質量保存の法則」、
生きても死んでもその“存在”は変わらないのです。
有でも無でも、どんな惨めな自分でも、“ジブン”であることは変わらない。
ならば修正なんて必要ない、今いる世界で辛くても精一杯生きた方が
自分のカタチ(結果や価値)を創れるはず。


僕達の人生がどうして貴重なものとして存在するかというと、
一度失われたものはもう二度と取り戻せないからなのであって、
また幸福なのは、一度過ぎ去った辛さは二度と同じように
味わうことはないことです。

「人生をやり直す」という言葉の意味を取り違えて、
記号的に「死んで生まれ変わる」としてしまうと、
もうその人は人間として生きていけないと思う。 
もし、人間の形をして生まれたとしてもそれが同じことの
「やり直し」だと、また同じ悩みにぶつかって死ぬしかないから。

「自分の人生を受け入れられないのであれば死ねばいい、
生きる権利があるならば死ぬ権利もあるんだから」…と
考えることは一見明快な答えに思えるけれど、
人間は決して単独で自分の人生を決定して
自分だけの責任において死ぬことはできません。

もちろん必要な「死」もある。生きたくても生きられなかった人もいる。
でも、生きる“価値”があるならば、死の“価値”だってちゃんとある。
殺すべきものは「記号的過去」なのであって、自分の肉体じゃない。

だから、もし死にたかったら、まず生きないといけない…
後悔と挫折の“上”に。
「死ぬほど生きる一度きりの人生」と
「死んだように生きる人生」と
「何度でも生まれ変わることのできる人生」、
どの人生が一番幸せですか?

僕はどうせいつか死ぬのならば、
一度だけの人生を“必死”に生きてからにしたいです。


難しい問題ではあるが、このような経験を持った人しか
語れないところがあります。

生きる価値観を”人の為”に向けてみてはどうでしょう。
自分の事を必要とする人が必ずいると思います。

自分の命は自分のものだけじゃない。
それを必要としてる人の為に使う。

いつでも”希望”を人に与えられる男になりたいものです。


臆病さと強さは相反しない

自分に怯み(ひるみ)を抱いてしまうとき。
何もかもが心配や不安でいっぱいになって、
自分を小さく小さくしてしまうときがあります。

過去の失敗からか、未来への無知のせいなのか、
どちらにせよ条件的な物事に縛りつけられて想像力が
一向に発揮できないのです。

あれこれ改善すべき事を考えてみるものの、
それを行動に移すための気力がついてこない。
そんなときは自分の望まない世界を自分で拡げてしまっているからなのです。

僕たちは地面にくっついて生きているから、
地べたのことは掘ったりさわったりできるので具体的に考えることが出来るけれども、
天の空のことは飛んでみても言葉通り「雲を掴む」ような漠然とした考えしか出来ない。

気持ちが落ち込んだとき、まずまっさきに考えられることは
目に見えるわかりやすい価値観だろうし、
具体的に感じる物事以外は信じることができない。

僕たちの未来は“未知”の世界だから、見えることばかり考えていては
自分の望む世界は拡がらないように出来ているのかもしれない。
それは何も考えないか、いい加減な気持ちになればいいというわけではなくて、
もっと大きくてもっと広い自由な世界があるということを実感として捉えること…

臆病になってしまうとき人の選ぶ道は二つ、逃げるか受け止めるか。
逃げるとますます小さくなるし、受け止めるにはその不安よりも
何かを大きくしなければならない。
大きな何かとは自分というキャンパスの枠よりも
はみ出したものを想像すること。

そんな時人は空を仰いでその青さを改めて知る。
「ああ、空ってこんなに青かったんだ」と。
わかりきったこと、当たり前だったことに純粋に感動できる自分が嬉しくなる。
そうして、小さくなってしまっている自分が妙にバカらしく思えるから不思議だ。

状況が変わってしまっても、自分という存在は変わらない。

いつの間にか状況に合わせて自分のペースというものを忘れてしまっただけ。
合唱で他の人のパートにつられて巧くハモることができなくなっているだけ。

自分のパートを、ペースを状況に惑わされずにもう一度思い出せば、
状況は自分にとってハーモニーとなります。

決して都合の悪い状況を無視しない、ひとつのメロディとして楽曲の一部分として捉える。
それが自分の望む世界を拡げる想像力であり、怯まない状況を創りだす。

具体的な不安がぶつかってそれを真正面で受け取ってしまったとき、
それを想像で包んで自分の脇へそっと置くぐらいの気持ち。

深く深呼吸してみぞおちよりも下に不安を落として着かせる。

臆病であればあるほどにそのチャンスは与えられ、
人は強くなっていくのだと
僕は思います。

不安を抱え込んでなお安心できる存在になったのだとしたら、
それは「強い」ということなんだと思いませんか?


参:強いとは弱さを知ること

マニュアルの奥にあるもの

中古車販売や古本のチエーン店など、
昔に比べてずいぶん増えてきていますよね。

その理由として、見積もりが全国一律ということで
お客さんの信用を得ているというのが上げられます。

今までは中古品というと、見積もり金額を出した人によって
値段が大きくブレたりしていました。
私たちが中古品を引き取ってもらったとき、よく感じるのが
「本当はもっと高く引き取ってもらえたんじゃないのぉ」
という不満でした。

でも今は、価格を決定する仕組みの裏側には、
いくつもの見積もりの基準がはっきりしているので、
そんな不満というのがなくなりました。


このことを私たちの業務に当てはめて考えてみますと、
私たちは業務のマニュアルに沿って動いています。
でも、このマニュアルも、人が実際に活用して動く場合には、
人それぞれによってブレというものが出てきます。
この人は、こんな対応をするのに、あの人はあんな対応を
するという様にです。

これは、マニュアルというものが、
「行動」を基準に作成されているからです。

このマニュアルの裏に隠れている、
なぜこのような「行動」をとる必要があるのか?

あるいは、なぜ、このような手順を踏むのか?という
理由をよく理解することが必要なのだと思います。

マニュアルの裏に隠れている部分を深く読むことで、
人によってブレない業務が生まれるんだと思います。

「自分の今持っているもので勝負する」 柳家小三治

背伸びをしない生き方。
自分の能力を乗り越えるために、自分以上の何かに
挑戦することは必要なことだと思う

でも、その努力が自分の中や上ではなく、
自分以外の所に向けられてしまうことが多い。

例えば、世間体や見栄だったり、給料や将来の保証だったりすると、
それは努力というものよりは「体裁」という言葉の方がぴったり合ってしまう。

博打で言えば、自分の持ち金以上の勝負をしてしまうように、
明らかに自分で責任が負えないのにも拘わらず「勝負師」としての
体裁を整えようと無理をしてしまうのです。

勝負に負けたときに言い訳をしない…それは自分に“投資”
したことに対する結果であるからできることで、
自分以外のところに“投機”したことには後悔しか残らない。

世の中には絶対負けるとわかっていたとしても、
闘わなければならない時もあるし、逆に勝てるにもかかわらず
あえて負けなければならない時もある。
その中で平常心を保ちながら
「己に克つ」ことを自分に課すことは困難なことだけれども、
それが出来た時には結果はどうであれ、
ジンとした何かしらの力が自分に宿ることがあります。

じゃあ、背伸びも無理もしないやり方でどうやって
「自分に克つ」「自分を超える」ことができるのだろう?

それは体調が悪いときでも、気持ちが沈んでしまっているときでも、
何かの原因があって良い結果が出せない状況であっても、

それを自分のベストだとしてチャレンジすることです。
そのためには「かつて」とか「以前は」とか「本当は」とか
“こうなるはず”という自分を全て取り払ってしまうことが必要。

一度成功体験を持つと自分に自信が付いて、今まで出来なかったことが
出来るようになりますが、違う状況にもそれを自分の”基準“として
考えてしまうとそれ以下は許せなくなります。 

うまくいったことが、その後をうまくいかなくしてしまうこともある。
イメージトレーニングなどで自分が勝利した姿を思い浮かべて
そうなるように実行することはとても大切なことだと思う。

でも“今の自分”を無視した勝ちパターンをいくら想定しても、
それは目標にも手段にもならない、ただの無謀となってしまいます。

大切なことは「己を知り、敵を知る」というその瞬間瞬間に
変化してしまうものを捉えることができるかどうか?

に懸かっているのではないでしょうか。

<笑わせるんじゃない、思わず笑ってしまうもの、それが芸だ>

僕もついウケようとして目立つことを考えたり、
これはすごいんだよと妙に説得しようとしたり
自分じゃないもので勝負しようとしてしまいます。

きっと「一流」と呼べる人達は“今の自分”だけで
勝負できる人のことを言うのでしょう。

何も面白くしようとしない、何も脚色しない、
ただそこにある物事を淡々とあるべき姿にしていくこと。

どこにも派手さがないのにそこに輝きがあるのは、
その素材がそのまま活かされたから。

認められたい…でもそれは、認めてもらうことでも認めさせることでもない、
つい他人が認めてしまうもの…それが“自分の実力”なのだと思うのです。

だから、実力のある人は他ごとに気に取られずに好きなことに夢中になれる。
負けてもいいし、失敗してもいい、ヘタでもいいし、認められなくてもいい。
今の自分、今の実力、今の気持ちだからこそできることがある。

もし、「これがしたい」「こんな自分にでも何かできることがあるかもしれない。」
そう思えることができたとき、
初めて自分の持っているものに気付いて勝負できるのだと思いませんか。

参: 「自由になれば、そこから何かが見つかるんだ」

※奥深い話ですが、裸一貫になったとき
今の自分で世の中に勝負できますでしょうか。

何もなくなった時、身の回りの人は助けてくれるでしょうか。
また、自分一人で生きて行けるでしょうか。

それこそが”今の自分の実力”になります。

かっこつけてばかりいて、人間関係をおろそかにしてませんか。
他人の事より自分の事しか考えてませんか。

何もなくなった時に、助けてくれる人がいる。

今の自分が周りの人に対してやってあげてることが
そのまま跳ね返ってきます。

今の自分で勝負できるよう、常に自分を磨きあげましょう。



弱さを経ていない強さはない 

人は弱い。
これ隠し様も無い事実。二足歩行に進化した瞬間から人は
道具をその手に携え、強き者となるべく敵を倒してきた。
その結果、生物の頂点に君臨し敵などいないかのように
強者として更なる進化を目指してより強力な武器や道具を
作り出そうとしている。

では、食物連鎖の頂点に立つ者は、いったい何に怯えて生きていくのか。
戦争によって、互いに殺しあうことに怯える。
その後平和が訪れ多産する必要がなくなり少子化に怯え、
自然の驚異そして極小の者、ウイルスに怯える。
生態系は決してピラミッドの形ではないことを知る。
極大は極小に極小は極大に吸収しあう一つの無限の輪の形をしているのかもしれない。
だから、強くなりたいと弱さを隠すほどに、弱き者に倒されてしまうようになります。


<強い者と闘うときは、ただひたすらに自分を信じ抜けばいい。>(長渕剛)

弱き者に自分の強さを誇示しようとすれば、
途端にその自信や強さはひっくり返る。
何故なら腕力や頭脳の強さとは、
自分の弱さを隠すために身につけた防衛手段だから。


<強くなければ生きていけない。でも優しくなければ生きていく資格がない>(フィリップ・マーロウ)

この矛盾、他を圧倒する力は人を魅了する、しかし、
何かを傷付けない限りその力は評価されない競争原理。
もし、本当の強さというものがあるのだとすれば、
その力を得た人は試す必要も誰かに誇示する必要もなくなってしまうのだろう。

今の僕達に課せられている問題とは、いかに便利で有効的な道具や能力が
開発できるのかというよりも、きっと自分の中にある「弱さとは何か」
ということを見極めることなんだろう。
その“弱さ”こそが自分にとって一番の“強敵”であるから。

「彼を知り己を知れば百戦危うからず」ただ生きて帰ってこられればいい。
「弱さ」と「強さ」とは、結局のところ“同じだけの力”があるのかもしれない。
己の弱さを痛いほどに思い知り、それを乗り越えようと人の心が猛烈に動いたときこそ、
その人の「本当の強さ」は出てくるのだと思いませんか?

参:強さとは弱さを知ること
ダメなら、そのダメさを見極めろ 岡本太郎

自己暗示

「疲れた」という言葉を5人に言ったとしたら、
それぞれの相手は1回ずつしか聞いていませんが、
あなた自身は5回も繰り返し聞いていることになります。

これでは、たいして疲れていなくても、
本当に疲れたような自己暗示にかかってしまいます。
つまり、あなたが「疲れた」と愚痴をいうごとに、
さらにどんどんと「疲れ」ていくわけです。

こんな経験はありませんか?
愚痴っぽい友人や、怒りっぽい友人の話に一日中付き合っていると、
何となく体中がだるくなったりイライラしてしまうという経験です。
マイナスの言葉を耳にしているうちに、
自然に体が消耗してしまうのです。

これと同じことが、
自分の言葉に対して起きても不思議はないでしょう。
自分にとってマイナスのことを何度も口にしていると、
いつの間にか体にとってマイナスの影響を与えていくのです。

※出典元 幸せのきっかけはみんな“耳”から入ってくる!

言葉の威力はすごいと思います。

必ず自分に跳ね返ってくるもんだと心得ていれば

有効に活用できます。

真剣に人に伝えようとすればするほど”あれっ?”と

疑問を持ったり、”あーこの言葉が言いたかった事なんだ”

と形になります。

どうせなら、少しでも多くいい言葉を言う回数を増やしたいものです。



“勝つ”とは、己を極めるということ

何をやってもうまくいかないときがあると思えば、
何もかもがうまく行きすぎて不安になるときもある。
どちらにしても不満が出てしまうのは何故だろう? 

お金持ちの方がいいし、物事が思い通りになる方がいいし、
夢は叶えられ望むものがすぐに与えられた方が幸せって思うのに、
それを願う自分がどこか空しくなってしまうのは何故だろう?

多分そこには“闘い”というものがないからだと思う。
人が自らすすんで行動するき、そこに“志”や“情熱”というものがある。
情熱とは“怒り”…生命が危険にさらされても恐怖に立ち向う純粋な憤り。
だから情熱がないと不安に身がすくみ妥協し闘う意志がなくなる。

ケンカはよくないと大人は言う、でも情熱が傾けられる場所はいつもケンカなのです。
相手を否定し消滅させる寛容のない暴力とは違う、パンパンと相手とぶつけ合う自分の魂。
闘いを避けると当たり前のことが当り前に出来なくなる。
故に幸福が当り前に感じれなくなる。そして、自分をぶつけるものがなくなれば、
もやもやとした不満を溜めて歯切れ悪く心は歪む。

世の中がつまらないのは、自分がつまらないから。
楽しさを望むなら、闘わなくてはならない。
そこには勝ち・負けというものは関係がなく、
どれだけ理解ができるか?という自己追求に意味がある。

究極には、ジブンという存在をえぐり出して、
見える場所にさらしてしまうこと。
もし、ジブンの器を越えたところから己を見つめることができたならば、
それがジブンに“勝つ”ということであり、“己を極める”ということではないでしょうか?

もちろん並大抵のことではできない、でも、情熱に背中を押されて前に出るとき、
初めて自分の能力は発揮されると僕は思います。
プロフィール

hayato

Author:hayato
那須塩原市で防災・防犯の会社を経営しております。安心・安全・信頼を通して地域のお役に立てる会社にしようと奮闘中です。少しでも皆様のお役に立てる情報が流せたらと考えております。

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