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そのままでいいんだ

<そのままでいいんだ。
そのままの姿で、そのままの命が吹き出るとき、それは美しい。
嬉しさも楽しさも怒りも哀しみもすべて美しい。
何も足す事も引く事も必要ない。
内側にあるものが外側に向かって広がっていくとき、
人はそこにほんとうのことを知る。
僕は感じる、未来は今この胸の中にある。>

自己肯定感。心の障碍(しょうがい)のほとんどは、外部からの虐待や、
内部の感受性の強さと自己評価の極端な低さによって起こります。

みんなが当然のように出来ている事が自分だけができていないと思う。
自分が生きる価値や必要性、意味が現実の中にうまく見出せないとき、
自信がある・ないではない、その根本の“ジブン”という存在を大切に思えなくなる。

保護者の“支配”によって自分の判断で物事を考えることができなくなったり、また感受性が
強すぎるために、周囲の評価を気にし過ぎて、「いい子」になろうと“ジブン”以外の何者かに
なろうと努力する。いつかは「いい子」であることに疲れて、いざ“ジブン”を見せようとしても
うまく力が入らず、またダメな部分があるので何もできなくなる。
見せることの出来ない“ジブン”は何の価値も必要性もなく情けない存在だと思い込む…。

嘘で真実が隠されることよりも、真実によって今までの思い出が全部壊されることの方が辛い
から、一生、このまま嘘で固めたジブンで生きてやれと、伏し目がちの毎日を過ごす。
それでもやっぱり“ジブンである理由”が欲しくて、甘え方がわからないまま、誰それ構わず
しがみついては裏切られる…ホントウノジブンハドコニイル?…。


人が何かの問題を起こすとき、ほとんどが「色・欲・金」の三原則で説明がつくといいます。
でも別の大きな問題は「美・純粋・真実」の感覚的・抽象的な憧れが裏切られた時に起こる。
傷だらけの安物レンズ越しにモノを見るように、世の中は歪み全て擦り切れているように映る。
自分を傷つけ存在を抹消しようとしたり、また逆の「ツェねずみ(※)」のように、「自分じゃない、
悪いのは世の中だ!」と自分を肯定できないから、社会を否定・攻撃するしかない。

そうなると鍵を失くした手錠のように、一度はめてしまうともう外せなくなる。
もがけばもがくほどさらにきつく締まってしまうこともある。
誰もそんなジブンを気にすることなく通り過ぎて行く…ガラクタを足で路肩に追いやるように。
ガラクタなジブンを守り続けること…壊れた古時計の“時間”を見るように。

そんな時大切なことは、壊れそうなジブンを捨てるのではなく、
ありのままのジブンを抱えて生きていくこと。 捨てるのはジブン以外のモノだけ。


「それでいいんだよ」とジブンの存在に安心できるからこそ何かを行うことができる。
これは、自分に努力をしないで成長せず、周りに認めてもらおうということではありません。
無理にジブンを褒める必要もないし、無駄にジブンを否定する必要もない。
悩んだり・頑張りたくても頑張れない時こそ、すでに“頑張って成長しているジブン”なのです。

サナギが蝶になるかのように、じっと羽が乾くのを焦らず待つこと…。
だから、誰かの愛にしがみつく前に、まずそんなジブンに安心すること。どれだけエリートで
技術や能力が高くて自信があっても、その安心がなければ必ず崩れてしまうのです。

大好きな人が成功・失敗しても、それで好き・嫌いになるというものではないはずです。
大嫌いなジブンを好きになんかなれないと思うかもしれない。
でも、好きになるのに理由はいらない、ただ、心を通わせたいと願えばいい。
だって、“ジブン”には“自分”しかいないのだから…。

失敗して落ち込んでいたなら、ぎゅっと抱き締めて安心させたい存在…だから、
“愛せるジブン”の行動も同じなのです。

「そのままでいいんだ」
そこから始まることは“ミライ”なのです。


参:誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”というらしい スガシカオ
全身全霊が宇宙に向かってパーっと開いていくこと…芸術(人生)は爆発だ! 岡本太郎
一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり 河合隼雄



※ 「ツェねずみ」 宮沢賢治
弱くて可哀想なねずみがいました。
だから、誰かが助けてくれるのは当然だと感じます。

でも、誰かが親切心で何かをしたとしても、ツェねずみの満足する結果でないと
「お前がいらんことを言わなければ、私は酷い目に遭わなかった。 
償うとくれ、償うとくれ!」と逆恨みします。

そのために友達がいなくなって最後は“ねずみ捕り”だけが友達になり、そして…。

宮沢賢治童話の不思議なところは、あらゆる特権や社会的主勢力が突然、
社会的な“悪”になったり“善”となる様が、オツベルやカイロ団長や
ツェねずみなどに象徴されていることです。

最初から明確な“悪”や“善”があるわけではないので、決めつけて読むことはできない。
あくまでも個人的な価値観と状況の変化を感じて
自分で善悪を判断していかなければならないのです。

狩猟に出かけた自尊心の強い人間が山中にある山猫料理店に入って…
「注文の多い料理店」。 語り手は誰の味方もしていないので
どの立場をとるかによって“悪”や“善”の判断が決まり、
悲劇とも喜劇ともとれ、読み返す度に新しい発見があります。

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